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ショートメッセージ2019年7月

7月28日 聖霊降臨後第7主日(ルカ11:1〜13―印刷用PDFはこちら

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そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
(ルカによる福音書11章9節)

 「祈り」、わたしたちは祈りについて、どのような思いをもっているでしょうか。今日の場面でイエス様の弟子たちは、「わたしたちにも祈りを教えてください」とイエス様に言います。その言葉には、「祈りたい、でもどうやって祈ったらよいのかわからない」という思いが込められています。わたしたちはどうでしょうか。「祈りたい」と心から願っているでしょうか。その思いがなければ、今日の言葉は心に届かないのかもしれません。
 イエス様は一つのたとえ話をされます。真夜中に友達が来て、パンを貸してくださいと頼みます。しかし真夜中のことですから、最初は当然断られます。けれどもしつように頼めば、その人は起きてきて、必要なものは何でも与えられるだろうという話です。これはあくまでも、「祈り」ということをテーマに、イエス様が語られた「たとえ」です。そしてこの話の中に、キーとなる語があります。それは「しつように」という言葉です。ただ玄関先で「パンを貸してください」と頼み、断られたら次の家に向かったというわけではありません。しつように頼み、そして必要な物を手に入れたという話です。
 「しつよう」という言葉には、「しつこいさま。自分の意見にいつまでもこだわりつづけるさま。えこじ。がんこ」という意味があります。原文の意味をみても、「恥知らず。ずうずうしい」、いずれにせよとても否定的な言葉が並びます。つまりこういうことです。パンを貸してほしい、その思いでやってきた友達は、しつこく、自分にこだわり、意地を張り通し、頑固に、恥知らずだと思われても、図々しいと思われても、それでも頼み続けた。それが祈りだと、イエス様は言われているのです。
 しつように求め、しつように探し、しつように門をたたく。そのときに神さまは応えてくださる。それは何故か。わたしたちと神さまとの関係が、そのようなものだからです。イエス様は、祈るときには「父よ」と祈るように言われました。「アッバ」というその言葉は、ギリシア語では幼児語です。赤ちゃんがお父さんを呼ぶときに使う言い方です。「お父ちゃん」、そんなニュアンスになります。
 わたしたちの祈りは、そのようなところに届けられている。遠く天の上から見下ろしている方にではなく、いつもそばにいて、「この子、大丈夫だろうか」と心配してくださる方、優しい目で見守り、その願いにじっと耳を傾けてくださる方が、わたしたちの祈りの対象である神さまの姿なのです。わたしたちは神さまと、そのような関係の中にいるのです。
 わたしたちは願い、求めていいのです。必死にすがり、泣きついてもいいのです。しつように神さまに祈るときに、神さまはわたしたちに良い物をくださるのです。

7月21日 聖霊降臨後第6主日(ルカ10:38〜42―印刷用PDFはこちら

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しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。
(ルカによる福音書10章42節)

 イエス様がある村に入ったとき、マルタという女性がイエス様を家に招き入れました。様々な場所で活動をしていたイエス様は、この行為をありがたく受け入れたようです。しかしイエス様が家に入ると、マルタとその姉妹マリアは、対照的に動きます。マルタはイエス様をもてなそうと、せわしく立ち働いていました。しかしマリアはイエス様の足もとに座って、じっとイエス様の話に耳を傾けていました。
 マルタはイエス様のために、立ち働いていました。この「立ち働く」という言葉は、「心をとりみだし」とも訳すことができます。彼女の心は乱されていたのです。イエス様のために接待をすることは、必要なことだったでしょう。しかし彼女の心は乱れ、イエス様の元から離れてしまったのです。
 その原因は、マリアの行動でした。彼女はイエス様の足もとに座り、その話に聞き入っていました。「大事なお客様が来たのに、マリアときたら何しているの」。その思いがマルタの心を支配したのでしょう。そしてイエス様に訴えます。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」と。マリアも自分と同じように働くべきだと考えたのです。
 マルタは、ただイエス様をもてなしたいと思っていたはずなのに、その心にいろんな思い煩いが襲い掛かってきました。そしていつの間にか、イエス様をもてなす思いよりも、自分は正しいことをしているという思いが優先されてしまい、それを無視するような態度が許せなくなってしまったのです。
 この物語は、きわめて日常的なものです。わたしたちは毎日の生活の中で、何度となく自分の中のマルタとマリアに出会っているのかもしれません。イエス様はマルタに言われます。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。わたしたちも経験あると思います。マルタのように心乱され、本当に大切なことを見失ってしまうことが。そしてイエス様はさらに続けます。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。良い方、それは何でしょうか。マリアは何をしていたでしょうか。
 彼女はイエス様の話に聞き入っていました。夢中になって、ずっと聞き続けていたのです。それを「良い」とされました。ボーっとしていることを良しとされたのではありません。台所仕事を拒否したのをほめられたのでもありません。彼女が選んだこと、それは主の言葉、み言葉を聞くということでした。そしてイエス様は、そのことこそ何にも増して大切なのだと伝えられたのです。
 わたしたちもまた、イエス様の言葉を聞くことを、何よりもまず優先しましょう。その上で、わたしたちがなすべきことをおこなうことが、イエス様の願いなのです。

7月14日 聖霊降臨後第5主日(ルカ10:25〜37―印刷用PDFはこちら

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律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
(ルカによる福音書10章37節)

 ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中で、追いはぎにあいました。イエス様の時代の話ですから、それほど珍しいことではなかったと思います。多分人通りもそれほどなかったのでしょう。追いはぎにあった人は倒れていました。そこに三人の人が通っていきます。一人は祭司、一人はレビ人、そしてもう一人はサマリア人です。わたしたちはこう聞いても、その違いがよく分からないかもしれません。しかし当時の人たちにとっては、とても身近な名前でした。
 祭司は神殿で仕事をしている人です。そしてレビ人は、その祭司の手助けをする人。つまり祭司もレビ人も、神殿に仕えるような人です。人々にとってエルサレム神殿は神聖なものでした。ですから彼らのような人たちは、人々の模範になるような生活をしていると思われていたかもしれません。しかし祭司もレビ人も、倒れた人を見ると道の向こう側を通って行きます。少し同情的に言うと、彼らには追いはぎにあった人を助けられない理由がありました。神殿で働く彼らにとって、「清い」こと、つまり「けがれ」から身を離すということは、何にも増して大切なことでした。死体に触れたり血に触れたりすることで、彼らは「けがれる」とされていました。真面目に神さまの掟に従おうとするからこそ、彼らは目を伏せたのです。祭司とレビ人のことを批判するのは簡単です。しかし自分のことを第一に考える彼らと、わたしたちは違うと言い切れるでしょうか。
 イエス様のたとえ話に出てくる三人目の人は、サマリア人でした。イエス様の周りで話を聞いていたユダヤ人と、憎しみ合っていた人たちです。その敵対しているはずの人が、倒れている人を介抱し、宿屋に連れていったのです。このサマリア人のようになりたい、心からそう思います。しかしそうもいかないのが現実です。わたしたちは日常の中で、様々な出会いをしていきます。そのときに、追いはぎにあってまではいなくとも、ボロボロになり、打ちひしがれ、明日どころか今日生きていくことも困難な人もいます。そんなときに、わたしたちはどうするでしょうか。自分の持っているもの、財産も時間も労力を差し出し、その人のために尽くすでしょうか。それとも目を伏せて、遠くを歩くでしょうか。
 イエス様は、隣人を愛するとはどういうことかを語られました。そしてわたしたちのために、十字架につけられました。それはわたしたちが傷つき、倒れたときに、近くに来て手を取り、「大丈夫か」と声を掛け抱きかかえて歩くためです。つまり、イエス様はわたしたちの隣人になり、わたしたちを愛して下さったのです。
 そして命じられます。「行って、あなたも同じようにしなさい」。
 わたしたちは何をすべきでしょうか。

7月7日 聖霊降臨後第4主日(ルカ10:1〜12、16〜20―印刷用PDFはこちら

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その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。
(ルカによる福音書10章1節)

 今日の聖書には、72人がイエス様から任命され、派遣されたという記述がありました。聖書にはこうあります。「ご自分が行くつもりのすべての町や村に、二人ずつ先に遣わされた」と。ご自分で行くはずの場所に、イエス様はあえて任命した人を遣わされたというわけです。イエス様が直接行った方が、人々は喜んだかもしれません。しかしイエス様はそうではなく、任命した一人一人を用い、人々の間に遣わし、自分がおこなうはずのことを任せられたのです。
 72人は喜んで帰って来ました。きっとイエス様に「行け!」と言われたときには、どうなることかと不安でいっぱいだったことでしょう。しかし目の前で、驚くべきことが起こっていったのです。自分を通してイエス様が働かれた。その実感を強く持ったから、喜びがあふれたのだと思います。
 わたしは牧師として働きだしてまだ6年半ですが、何度も驚くべき出来事を見せつけられてきました。お祈りの中で不思議な力を感じたこと、目の前の人の心が神さまに変えられたこと、小さな集まりの中にイエス様が共にいて下さると心から思えたこと。そのような一つ一つの出来事がわたしをさらに外へと突き動かし、「行け!」という言葉に促されて歩む原動力となっているのです。そしてまた、驚くべきことがわたしを通してなされていく。
 わたしは思います。これがイエス様の働きでなくて、何なのだろうかと。わたしが計画して、実行したのではない。イエス様がわたしを通して様々な人たちに働きかけ、救いに導かれたのです。わたしはただ、イエス様に遣わされ、なすべきことをしたまでです。わたしはきっと、72人の一人として、遣わされているのでしょう。一人でも多くの人と神さまからいただいた恵みに感謝し、神さまの愛を分かち合うようにと。でもそれは、わたしだけではない。イエス様を信じ、イエス様を受け入れ、イエス様と共に歩むすべての人に、求められていることです。
 わたしたちが周りを見渡したときに、孤独な人や病気のために苦しんでいる人、不安を覚え悲しんでいる人はいないでしょうか。イエス様は72人を町や村に遣わしたように、今、わたしたちを、この生活の場に遣わされています。神さまの恵みに感謝し、神さまの愛を伝えていく器となるように、それが神さまの願いです。わたしたちには大きな力などありません。でも共に働いてくださるイエス様がおられるから、わたしたちは隣にいる人に「大丈夫!」と伝えることができるのです。必ずイエス様が来てくださるから大丈夫。その言葉を待っている人はたくさんいるはずです。
 神さまがわたしたち一人一人を用いて下さいますように、お祈りしていきましょう。

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