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ショートメッセージ2019年8月

8月25日 聖霊降臨後第11主日(ルカ13:22〜30―印刷用PDFはこちら

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狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
(ルカによる福音書13章24節)

 「狭い戸口から入るように努めなさい」。イエス様のこの言葉は、ある人の質問を受けて語られたものです。一人の人が質問します。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。このような質問に対して、普通どのような答えが予想されるでしょうか。
 「少ないのでしょうか」と聞かれたわけですから、「そうだ、少ない」、「いいや、多い」、このいずれかが適切な答えだと思います。また「わたしにもわからない」というのもあるかもしれません。たとえば「そうだ、少ない」と言われたら、「じゃあわたしはその中に入っていますか」と聞きたくなります。逆に「いいや、多い」と言われたら、安心して家に帰ることができる。でも彼の耳に届いた答えは、予想していなかったものでした。「狭い戸口から入るように努めなさい」。
 今日の福音書の後半には、このような言葉があります。「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり…」。アブラハム、イサク、ヤコブとはユダヤ人の祖先です。旧約聖書にも名前が出てくる人たちです。そのユダヤの祖先たちが神の国に入っている。だから自分たちユダヤ人も、神の国への道が開かれている。ユダヤ人はそう思っていました。しかしそうではないのです。ユダヤ人だからといって、神の国に入れるとは限らない。それどころか、東から西から、南から北から来た人たち、簡単にいうと異邦人が、神の国で宴会の席に着くというのです。
 一緒に食べたり飲んだりしたからといっても、広場で教えを受けたとしても、ユダヤ人だろうと、それが何になるのかとイエス様は言われています。わたしたちもそうです。教会に行っているから、クリスチャンホームに育ったから。だからわたしこそ神の国にふさわしい。そのように考えるときに、わたしたちの前にある戸口の戸は閉められてしまうのではないでしょうか。
 イエス様が言われる「狭い戸口」、それは人がやっと入れるようなものなのかもしれません。みんなで一緒に手をつないで、入ることができないのです。一人一人の決断が求められるのです。
 イエス様は言われます。あなたたちも自分の十字架を負い、わたしに従いなさいと。イエス様が身をかがめ、腰を曲げ、十字架を引きずりながら進む道の後に、狭い戸口が開かれるのです。わたしたちはそこを目指して、歩んで行くことが求められているのではないでしょうか。
 イエス様はわたしたち一人一人に語られます。「あなたはわたしについて来るのか」、「あなたはどうするのか」。
 その声に、わたしたちはどう答えるのでしょうか。

8月18日 聖霊降臨後第10主日(ルカ12:49〜56―印刷用PDFはこちら

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あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
(ルカによる福音書12章51節)

 今日の福音書は、「分裂をもたらす」という箇所です。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と語るイエス様の言葉は、とても恐ろしいものです。イエス様はどのような状況で、このようなことを言われたのでしょうか。
 わたしたちが聖書を読む中でいつも心掛けたいこと、それはイエス様の十字架と復活の出来事をいつも心に留めながら読むということです。わたしたちが自分だけの力で平和な世界を作れるのだとしたら、イエス様は必要なかったでしょう。しかしそうはなれない現実があるのです。
 イエス様の十字架がなく、わたしたちがそれぞれ自分勝手に生き、自分こそ正しい、自分こそ立派なおこないをしていると主張するとき、わたしたちには分裂しかありません。イエス様の十字架によってのみ、わたしたちは生かされる。しかしそこには、わたしたち一人一人の決断が必要だし、その決断にも分裂が伴うのです。
 小学生のころ、こんな実験をしたことはなかったでしょうか。机一杯に釘を置き、上の方から磁石を近づけていく。釘の上に、少しずつゆっくりと近づけていくと、ある瞬間に一本、ポーンと上に飛びあがって磁石にくっつく釘が出てきます。仲間の釘から一本だけ離れて、磁石にくっついていく。イエス様の十字架に生かされるということは、わたしはこの釘のようになることではないかと思うのです。
 イエス様は、「わたしに従いなさい」と一人一人を招かれる。とても不安です。恐いです。周りの釘たちと別れ、違う世界に飛び込むのです。イエス様がみんなに一緒に声を掛けてくれたら、巨大な磁石ですべてを吸い上げてくれたら、そう思うかもしれません。しかしイエス様は一人一人を、それぞれのタイミングで呼ばれます。そして、磁石に向かって飛び立つかどうかは、あなたが決めることです。
 そのときに、釘同士の間で起こること、それは確かに分裂です。今まで一緒だったものが、別々になっていく。でも、イエス様の招きはそこで終わりません。イエス様はこの世のすべての人が救われるように、この世に遣わされました。一人も滅びることのないように、それが神さまのみ心です。だから、イエス様という磁石は、何度も、何度でも、わたしたちの上に来るわけです。
 次のタイミングで、直接イエス様に結び付けられる人も出てくるでしょう。また磁石につけられた釘の先に別の釘がくっつくように、わたしたちを通してイエス様に結びつく人も出てくるはずです。肝心なのは、すべての人がイエス様を土台としているということです。イエス様に結びつき、イエス様に信頼し、イエス様にすべてを委ねるとき、わたしたちは分裂から平和へと、導かれていくのではないでしょうか。

8月11日 聖霊降臨後第9主日(ルカ12:32〜40―印刷用PDFはこちら

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小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
(ルカによる福音書12章32節)

 今日の福音書を読むと、このような命令が心に残ります。「目を覚ましていなさい」。わたしはこの言葉が苦手でした。肉体的に目を覚ましておきなさいということではないことは、分かっていました。しかし「いつも神さまに心を向ける」ことが、とても辛い時期がありました。思いや言葉で人を傷つけ、自分と違う考えの人と関わることを嫌い、自分勝手に生きていく。教会から離れた生活をしたときに、窮屈さから解放されたような思いすら持ちました。
 しかし、今日の箇所を改めて読んだときに、イエス様はただ「目を覚ましていなさい」とだけ命じられているのではないことに気づかされます。
 イエス様は、「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは幸いだ」と言われます。そしてその理由を、このように言われるのです。「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」と。
 すっと読み飛ばしそうになりそうですが、ここに書かれていることは「あり得ない」ことです。主人の帰りを待っているのは僕たちです。僕とは当時で言うと、奴隷にあたる人たちです。奴隷ですから、主人が遠くから帰ってきたら、どんな時間であろうとも食卓を用意するのは奴隷の役目です。しかしイエス様のたとえに出てくる主人はそうしませんでした。主人自らが腰に帯を締め、僕たちを食事の席に着かせます。そしてあろうことか、そばで給仕をしてくださるのです。
 イエス様はわたしたちに、「目を覚ましていなさい」と言われます。それはいつ自分が帰ってきたときでも、ちゃんともてなせという意味ではありません。イエス様が来たときに、わたしたちを喜びの食卓に招くから、それまで起きていなさいねというのが、イエス様の願いなのです。
 「はい、待っています」。しかしそんな威勢のいい答えとは裏腹に、わたしたちはすぐに心乱れ、他のことに関心を向け、自分のことを第一に考え、まさに眠ってしまうような、そんな時間を過ごすかもしれません。
 イエス様が来られたとき、急いで目をこすり、顔を洗って、「眠ってなどいません!」と力強く答えたとしても、イエス様はわたしたちのことをすべてご存じです。そのときにイエス様は、「ちゃんと起きてなかったじゃないか」とわたしたちを追い出すでしょうか。わたしは思います。イエス様はそんなことしないと。
 それどころか、わたしたちにイエス様は食卓を準備される。これがイエス様のもてなしです。この約束を知っているから、わたしたちは日々喜びをもって、待ち続けることができるのではないでしょうか。

8月4日 聖霊降臨後第8主日(ルカ12:13〜21―印刷用PDFはこちら

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そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
(ルカによる福音書12章15節)

 今日のイエス様のたとえには、「愚かな金持ち」と呼ばれる人物が登場します。彼の畑が豊作になり、その作物をしまっておこうと彼は考えた。しかし倉が小さかったので、大きいのを建てようと思った。そして一休みして、食べたり飲んだりして楽しもうとしたところで、その命が取り上げられたという話です。この金持ちの考えたことが「愚か」と言われるものであれば、どういうことなのでしょうか。明日への備えをすることがすべて否定されているのでしょうか。
 このたとえは、群衆がイエス様に申し出たこの言葉に対してなされたものです。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。遺産の相続は、とても大変なことでした。兄弟の場合、兄は弟の二倍遺産をもらえる権利がありました。しかしもしかすると、この人は兄から何ももらえなかったのかもしれません。そうなると死活問題です。明日からどうやって生きていけばいいのだろうと、文句を言いたくなるのもうなずけます。
 その彼にイエス様は言われます。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と。貪欲という言葉には、「自己の欲するものに執着して飽くことを知らないこと。非常に欲の深いこと」という意味があります。カトリックでは七つの大罪の一つに数えられているほどのことです。彼の思いは貪欲だったということでしょうか。そしてそのことを示すたとえとして語られたのが、愚かな金持ちの話でした。
 金持ちは豊作になったときに、独り言を発します。その言葉を少し丁寧に訳すと、このようになります。
 ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。わたしの作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。わたしの倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこにわたしの穀物やわたしの財産をみなしまい…
 彼は、こうつぶやいているわけです。「わたしの作物」、「わたしの倉」、「わたしの穀物」、「わたしの財産」、すべてが「わたし」のものなのです。そして続く言葉も、このようになります。「わたしはわたしの魂に言おう。わたしの魂よ、楽しめ」と。
 「わたし」に固執して、魂さえも自分のものだと自分の中に抱え込む。これが、この金持ちの姿だったのです。自分の周りにある様々なものに心奪われ、執着していく。その姿が、貪欲だとイエス様は指摘されました。
 ではどうしたらいいのでしょうか。わたしたちは何により頼めばいいのでしょうか。目の前にあるお金や財産、地位や名誉に固執していてよいのでしょうか。
 ただ神さまにより頼む。すべてを委ね歩んで行く。そのような生き方ができたらと思います。

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