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ショートメッセージ2019年11月

11月24日 降臨節前主日(ルカ23:35〜43―印刷用PDFはこちら

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するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
(ルカによる福音書23章43節)

 本日は降臨節前主日です。そして来週12月1日は、降臨節第1主日となります。教会の暦では新しい年のスタートとして、イエス様のご降誕を待つアドベントを迎えます。つまり今日は、教会では今年最後の主日となります。
 その主日に読まれた福音書が、イエス様の十字架の場面です。すでにイエス様は十字架につけられています。民衆は立ってその様子を見つめていました。議員たちにあざ笑われながら、兵士たちに侮辱されながら、イエス様は十字架につけられていました。そのときイエス様は、一人だけで十字架につけられていたのではありませんでした。イエス様の両側には、二人の犯罪人がいました。そしてその二人は、まったく対照的な言葉を、イエス様に対して投げ掛けます。
 一人は言います。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。しかしもう一人は、たしなめながら、こう言います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。
 この二人の姿を見たときに、わたしは最近問題となっている「あおり運転」を思い起こしていました。人は急いでいるときに、周りが見えなくなっていく。自分のことを中心に考えてしまう。横断歩道の前に歩行者が立っていたとしても、止まってくれる車なんてほとんどありません。スピードもゆるめずに、走り去っていきます。そして自分の気に食わないことに出会うと、周りをあおっていく。
 わたしたちは普段の生活の中で、あおり運転のような生き方をしてはいないでしょうか。あおり運転、それは自分中心の生き方です。自分が正しい、周りが間違っている。自分のことを優先して、何が問題なのかという生き方です。
 イエス様が十字架につけられているのを見たら、あざけり、唾を吐き、首を振りながら去っていく。それは、自分は犯罪者ではない、罪人ではない、十字架とは全く関係のない人間だと思っているからなのです。
 二人目の犯罪人は、こう言ってもう一人の犯罪人をたしなめました。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」。わたしたちはどうでしょうか。自分は正しい、間違っていない。その思いが先行していませんか。
 わたしたち一人一人もまた、十字架につけられている罪人なのです。この一年を振り返ったときに、わたしたちは何度、周りの人を傷つけ、周りの人の存在を無視し、そして神さまに背いてきただろうかと気づかされます。
 一年の最後、わたしたちは自分の姿を振り返っていきましょう。自分はすべてにおいて正しい人間でしょうか。自分の中に罪の心はないでしょうか。
 イエス様は、そのようなわたしたちの元に来てくださるのです。

11月17日 聖霊降臨後第23主日(ルカ21:5〜19―印刷用PDFはこちら

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しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
(ルカによる福音書21章18節)

 教会の暦では、降臨節第一主日から一年がスタートします。2019年の降臨節第一主日は12月1日(日)ですから、11月30日が教会では一年の終わりということになります。お正月と大みそかのことを少し考えてみましょう。多くの人は大晦日が来る前に、年越しの準備をすると思います。大掃除をしたり、かがみ餅を飾ったり。そして大みそかには紅白歌合戦でも見ながら、新しい年の訪れを待つことでしょう。
 それは、新しい年が必ず来るという確信があるからだと思います。日が暮れて夜になったとしても、朝が必ず訪れることを知っているから、暗い中でも怖がらずに、わたしたちは休息のときを持つことができるのではないでしょうか。
 しかし今週の福音書を読んだときに、大みそかのワクワクはなかなか感じられないと思います。それはとても恐ろしい言葉が並んでいるからです。
 「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」
 「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」
 これらの言葉を聞かされたときに、わたしたちの心の中には絶望しか生まれないのかもしれません。しかしこの言葉をイエス様は、わたしたちをただ怖がらせるためだけに語られたのでしょうか。
 わたしたちが生きているこの世界には、楽しいことも、うれしいこともあるでしょう。しかしそれと同じくらい、いやそれ以上に、辛いこと、悲しいこと、苦しいことがあります。まさに暗闇の中に叩き落されるような状況に陥ることさえ、わたしたちの日常の中にはあるのです。
 イエス様は、この言葉を十字架につけられる直前に語られました。イエス様の十字架の死、それはまさにイエス様に従う人々にとって、悲しみであり、嘆きであり、絶望でした。しかしそれで終わりませんでした。イエス様は、復活されます。それは従う人々のためのみならず、すべての人々のためでした。たとえ今、悲しみのどん底にあったとしても、イエス様はわたしたちのために来て下さる。それがイエス様の約束なのです。
 どんなに辛い毎日でも、明日のことがまったく見えないそんな日々でも、必ず新しい朝が来る。復活のイエス様が手を差し伸べてくださる。そのことを信じていてほしい。それがイエス様の思いなのではないでしょうか。
 「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。」
 この約束の言葉を信じ、新しい朝を待ちわびたいと思います。

11月10日 聖霊降臨後第22主日(ルカ20:27、34〜38―印刷用PDFはこちら

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神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。
(ルカによる福音書20章38節)

 今日はオリーブまつりです。たくさんの方々が礼拝に来て下さいました。今回のオリーブまつりは第14回です。隔年で文化的催しとバザーをおこなってきました。しかし今年、わたしたちはあえて「バザー」という言葉を使わないようにしてきました。それは今までのバザーのイメージとは違うことをしようとしているからです。
 今年はいろいろな働きをしている団体の方にブースをお貸しして、一緒に販売などをしていただいております。なぜ、このような試みをしようとしたのか。バザーで売る品物が集まりにくくなったから、働き手の平均年齢があがってしまいしんどくなったから。そのような理由もあるでしょう。でもそのようなマイナスの理由より、プラスの理由をみなさんと共有したいと思うのです。
 それは、多くの交わりの中で、わたしたち一人一人が神さまに生かされ、そして共に歩んでいるということを知ることができるということです。そのような方々と顔を合わせ、お話しをし、同じ時間を共にする。そこに何が生まれるのか。そこには何が働いているのかをご一緒に感じていきたいのです。
 今日ご参加いただく方々は、本当に様々な活動をされています。その働きに共通していることがあるとしたら、それはだれか今、困っている人や悲しんでいる人、苦しんでいる人と一緒に歩いているということでしょう。一緒に笑い、一緒に泣き、一緒に傷み、一緒に喜ぶ。そんな活動をされているのではないかと思います。
 2000年前、イエス様はわたしたちの間に来られました。神さまはわたしたちの間に、独り子であるイエス様をお遣わしになったのです。神さまは上の方からわたしたちを見降ろして、頑張れ、頑張れと言うだけではありません。そんなこと言われても、頑張れないこともある。こういうことができたら、幸せになりますよ、天国に行けますよと言われても困る。なぜならわたしたちは、完璧な人間ではないからです。
 わたしたちには弱さもあれば、欠けていることもある。どうしようもなく、隠しておきたいところだってあります。でも安心してください。神さまは、そんな真っ黒いわたしたちを、それでも愛してくださっているのです。
 わたしたちの弱さの中に、イエス様は来て下さる。よごれたままのわたしたちを、そのまま受け入れてくださいます。上から見ているだけではなく、共に喜び、共に泣き、そして共に歩んでくださるのです。
 神さまは決して死んだ者の神さまではありません。生きている者、わたしたちの間に愛を運んでくださる神さまなのです。そのことを、心の底から感じ、神さまに感謝したいと思います。
 今日の交わりの中で、ご一緒に神さまの愛を感じていきましょう。

11月3日 聖霊降臨後第21主日(ルカ19:1〜10―印刷用PDFはこちら

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イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
(ルカによる福音書19章5節)

 今日の福音書は、ザアカイの物語です。ザアカイは徴税人の頭で金持ちでした。当時ユダヤの国はローマ帝国に支配されていました。ローマはユダヤの人々から徴税するために、ユダヤ人の徴税人を雇っていました。彼らの多くは、徴税額より多くの額を徴収することによって、自分たちの懐を潤していました。
 ですから彼ら徴税人は、ユダヤ人から嫌われていました。重い取り立てによって自分たちの生活が圧迫されるということもあります。そして自分たちユダヤ人を裏切ってローマの手先になったということも、彼らが嫌われた理由の一つでしょう。
 ある日ザアカイの耳に、イエス様がエリコの町を通られているという噂が入ります。ザアカイはイエス様がどんな人か見ようと、出かけます。なぜザアカイがそのような思いを持ったのかはわかりません。物珍しさからなのか、一度話を聞いてみたいと思ったのか、あるいは自分を変えたいと思ったのか。聖書はそのことについて、何も触れていません。
 ザアカイはイエス様が通る道の近くまで来ました。しかし群衆が邪魔で、イエス様を見ることができません。普通であれば、前の人にかがんでもらったり、道を開けてもらったりできたかもしれません。しかし彼はユダヤ人から嫌われていました。だから近くの木に登ってイエス様を見ることにしたのです。
 そしてイエス様は、大勢の群衆を引き連れながらザアカイの真下に来ます。すると通り過ぎることなく、ザアカイを見上げて言われます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。
 この言葉に対し、ザアカイは喜びます。きっとこんなに優しく「ザアカイ」と呼ばれたのは久しぶりだったことでしょう。直後のザアカイの言葉から、自分は貧しい人を苦しめ、だまし取るようなことをしてきた自覚があったようです。だからなおさら、イエス様の呼びかけが心に届いたのでしょう。
 ザアカイの物語は、わたしたちにイエス様とはどのような方なのか、教えてくれます。わたしたちは生きている中で、たくさんの過ちを犯します。本当であれば、神さまに顔向けできないようなわたしたちです。しかしイエス様は、そのようなわたしたちの元に来られ、名前を呼んでくださるのです。
 罪深いザアカイのところに宿を取るイエス様を、周りの人たちは非難します。そんな彼らにイエス様は言われます。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と。人の子、つまりイエス様は、神さまから離れていった人たちを呼び、招くために来られました。わたしたちにも、「〇〇、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」という言葉が掛けられているのです。

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