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ショートメッセージ2019年12月

12月29日 降誕後第1主日(ヨハネ1:1〜18―印刷用PDFはこちら

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初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
(ヨハネによる福音書1章1節)

 ヨハネ福音書の冒頭は、このような言葉から始まります。しかしこの箇所は長く信仰生活を送っている人ですら、難しく感じるかもしれません。
 わたしたちはこの25日に降誕日を迎えました。今日、「初めに言があった」という箇所に聞いているのは、この「言(ことば)」とイエス様を同一視しているからだと思います。しかしそうだとしても、なかなかそのことを受け入れることができないことも事実です。知識が邪魔をして、すんなりと心に落ちないことも多いでしょう。2000年も前に生まれた人が自分と関係があるなんて、すぐに信じることができない。自分で見たもの、確かめたものでなければ、わたしたちはなかなか理解できないのです。
 わたしは先日、清里にある清泉寮に行ってきました。その中で、体験プログラムというものに参加しました。夜のプログラムでしたが、みんなで集まってレンジャーと呼ばれる案内人の人と一緒に出掛けました。ロビーで集まったときに、まず全員に赤いシートが配られました。最初は広場に出て、満天の星空を眺めます。あれが何座で、それが天の川でと、なかなか見られないすばらしい星空に圧倒されながら、次に森の中に出かけて行きました。だんだんと建物から遠ざかっていき、足もともよく見えなくなっていく。2つの懐中電灯の明かりだけをたよりに、奥へと歩いていきました。
 少し歩いて到着したのは、ちょっとした広場になったような場所でした。そこでレンジャーはわたしたちに言います。「さあ、赤いシートを広げて、その上に寝そべってください」。そこには一面、雪が積もっていました。とても冷たそうです。しかしわたしたちは言われた通りにシートを広げ、寝そべりました。静かに5分間、シートに寝そべった状態で空を見上げます。木々の間から、星空が顔をのぞかせます。最初は冷たかった背中も、少しずつ温もりを帯びていきます。顔には細かな雪が、ずっと降り注いでいきます。その雪が最初は嫌で、何度も顔をぬぐっていました。でもだんだんと心地良くなり、何かに包まれているような感じになっていきました。5分の合図があるころには、すっかり穏やかな気持ちになっていきました。神さまに包まれるってこういうことなのだろうか。イエス様がわたしたちの間にいるということは、こういうことか、頭ではなく体で、そのように感じていました。
 もしもわたしたちが頭で聖書を理解しようとすると、それはとても難しいことでしょう。しかし幼子のような心で、目を閉じて、耳をすまし、五感すべてをお委ねする。大地に大の字で寝ころがるように、両手を広げて力を抜き、イエス様のふところに飛びこんでいくときに、イエス様を感じることができるのかもしれません。
 主は共におられます。

12月22日 降臨節第4主日(マタイ1:18〜25―印刷用PDFはこちら

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夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
(マタイによる福音書1章19節)

 聖書には、たびたび「恐れ」という言葉が出てきます。今日の場面では、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と主の天使がヨセフに語り掛けました。
 ヨセフは、イエス様の母になるマリアと婚約していました。婚約の期間は一緒に住むことはできず、当然子どもが生まれるはずもありません。ところがマリアがある日、ヨセフの元に来て言うのです。「わたしは聖霊によって身ごもりました」と。聖書はこのときのヨセフのことを、このように書いています。
 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
 あまりにもあっさりとした記述です。しかしヨセフの心の中には、様々な思いが渦巻いていたことでしょう。彼は正しい人でした。正しい人とは、律法で決められたことに忠実であることを意味します。では彼は、マリアを受け入れることができたでしょうか。律法に照らし合わせると、マリアは姦淫の罪を犯したことになります。とても重い罪です。ヨセフは正しい人だったのでひそかに縁を切ろうと決心した。この言葉だけを読むと、とても冷たい印象を持ちます。しかしこう考えることもできます。ヨセフはマリアとその子を守るために、どうしたらいいかと悩んだ。悩んだ末に出した結論が、ひそかに縁を切るということでした。
 しかし、神さまのご計画は、ヨセフの思いをはるかに超えたものでした。神さまは主の天使をヨセフの夢の中に遣わして、こう伝えます。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」。ヨセフは恐れました。目の前が真っ暗になっていたと思います。しかしその恐れの中に、神さまの大いなるみ業があらわれたのです。
 わたしたちはもうすぐ、クリスマスを迎えます。でもどうでしょうか。喜びだけがすべてを覆っているでしょうか。そうではないと思います。不安や恐れ、苦しみや悲しみだってある。そういう方も多いのではないでしょうか。
 幼稚園の園庭に、色鮮やかなイルミネーションが飾られています。普段は全く見えないけれども、薄暗い朝や夜には、小さな明かりが驚くべき光に、まばゆいばかりの明るさになります。暗闇の中だからこそ、光に包まれる。わたしたちのこの心がたとえきれいでなかったとしても、素晴らしい光を与えてくださる。それがクリスマスなのです。
 恐れるな。恐がらなくていい。大丈夫。わたしがいつも共にいる。その言葉が、わたしたちの心の中にも届いているでしょうか。神さまが共におられるという約束が、わたしたちの耳にも聞こえているでしょうか。

12月15日 降臨節第3主日(マタイ11:2〜11―印刷用PDFはこちら

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目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
(マタイによる福音書11章5節)

 「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」、洗礼者ヨハネが自分の弟子たちを送り、イエス様に尋ねさせたこの言葉は、今イエス様のご降誕を待ち望むわたしたちにとって、どのような意味を持つのでしょうか。
 洗礼者ヨハネは、イエス様のことを前から知っていました。マタイ福音書の3章13節には、洗礼者ヨハネがイエス様に洗礼を授ける場面が描かれています。そのときヨハネは、イエス様にこう言って自分から洗礼を受けることを思いとどまらせようとします。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と。
 ヨハネはその前に、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と人々に言っていました。きっとヨハネはイエス様のことを、「後から来る方」だと思っていたのだと思います。それからも彼は、人々に悔い改めを迫っていきました。権力者をも恐れず、領主であるヘロデの罪を責め、そのために牢に入れられていました。ところが「後から来る方」であるはずのイエス様は、火と聖霊で人々を裁こうとされません。そこで疑問が生じたのでしょう。あなたは本当にわたしの待っていた方なのかと。
 その問いに対し、イエス様はご自分がなされてきたことを語られました。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされていると、イザヤ書35章を思い起こさせる言葉を語ります。そのイザヤ書35章の言葉は、「神は来て、あなたたちを救われる」という言葉に続いて書かれたものです。
 つまりイエス様がなさったことは、神さまが来られたということ。神さまがみ手を伸ばされたということ。そして神さま自らが人々を救われているということを示しているのです。目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人、耳の聞こえない人、そして貧しい人。自分の力で神さまの元にたどり着けない人のところに、神さまが来て下さる。それが福音、喜びの知らせなのだということです。
 そして今、多くの人たちが、クリスマスを待ち望んでいます。その中には、前が見えず、一歩も進むこともできず、社会から疎外され、その耳に福音が届かず、神さまを心から求めている人たちがいます。わたしたちもその一人なのかもしれません。そこに、神さまが手を伸ばし、イエス様を与えて下さるのです。
 その日を心静かに待ち望みましょう。主は来られます。

12月8日 降臨節第2主日(マタイ3:1〜12―印刷用PDFはこちら

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悔い改めにふさわしい実を結べ。
(マタイによる福音書3章8節)

 今日の聖書には、洗礼者ヨハネが人々に悔い改めを宣べ伝えるという出来事が描かれています。天の国は近づいた、つまり神さまの支配が近づいたのです。間もなく神さまがこの地を支配する。そのときに、神さまにそっぽを向き、背き、裏切ってきたあなたたちはどうなってしまうかとヨハネは叫びます。
 しかし「悔い改めよ」という言葉を聞くときに、それができない自分にも気づかされます。罪の自覚はあります。正しい者でないのも分かっています。しかし「悔い改めよ」という声に従って歩いていく、その勇気がないのです。
 少しぐらいのよごれであれば、洗い流してもらえるかもしれない。少しだけ神さまに背いていたのであれば、方向転換もすぐできるかもしれない。でもそんなレベルではない自分の姿を自覚したときに、わたしたちはその声に向かっていけるのでしょうか。
 この前、幼稚園で羊飼いのお話をしました。イエス様が誕生されたとき、その喜びの知らせは、野原で羊の番をしていた羊飼いの元に一番に届けられました。主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らし、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という喜びの知らせを羊飼いたちは聞きました。
 では羊飼いってどういう人たちだったのでしょうか。そんなにすばらしいお告げを真っ先に聞けるのですから、神さまのいいつけをしっかり守る正しい人達だったのでしょうか。決してそうではありませんでした。
 彼ら羊飼いは非常に貧しく、定住地を持ちませんでした。そのため安息日を守ることもできず、動物の死骸や血を日常的に扱っていたために、社会ののけ者とされていました。神さまから遠く離れ、見捨てられた存在だと彼らは思っていたことでしょう。悔い改めよという言葉が耳に入ったとしても、どうすることもできないのです。自分の力で神さまの元に近づくことなど、まったく無理でした。
 しかしそんな羊飼いの元にも、救いの喜びがもたらされます。それこそがクリスマスの奇跡なのです。たとえ心の中がぐちゃぐちゃでもいい。もちろんきれいに整頓されていてもいいでしょう。しかし心が混沌としていても、真っ暗闇でも、声も出ない状態でも、一歩も進めなくても、でも、それでも、イエス様は必ず来て下さる。わたしたちの心に光をもたらすために、来て下さるのです。
 わたしたちは自分の力だけで、神さまの方に向き直ることができるでしょうか。心から悔い改めることができるでしょうか。それができないことを知っているから、神さまはわたしたちに大切な独り子を与えてくださいました。その日を待ち望んでまいりましょう。

12月1日 降臨節第1主日(マタイ24:37〜44―印刷用PDFはこちら

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だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
(マタイによる福音書24章42節)

 今日から教会は、降臨節に入りました。アドベントという言い方の方が、聞き覚えのある方もおられるかもしれません。降臨節とはイエス様が誕生される降誕日(クリスマス)を待ち望む、そのような期節です。わたしたちは誰かの誕生日をお祝いするとしても、その日を一ヶ月近く前から待ち望むということはあまりないと思います。しかし教会では、アドベントクランツを飾ったり、アドベントカレンダーをめくったりして、その日を楽しみに待ちます。それはなぜなのでしょうか。
 ここで2000年前に訪れた最初のクリスマスについて、思いを馳せてみましょう。物語の主人公は、マリアという女性でした。彼女は王族でも、お金持ちの娘でもなく、どこにでもいるような女性でした。そんなマリアの元に天使がやってきて、マリアに告げます。「おめでとう、あなたの元に神さまの子どもが生まれます。名前をイエスと名付けなさい」。
 マリアは困惑します。なぜならマリアにはヨセフという婚約者がいたものの、正式な結婚はしていなかったからです。そのような状態で妊娠したことが知られると、彼女は不貞の女というレッテルを貼られ、姦淫の罪で石打ちの刑に処せられる可能性すらあったのです。
 これだけでも大変な状況です。その後マリアは何とかヨセフに受け入れられますが、住民登録のために通ったベツレヘムでは宿を取ることもできず、結局家畜小屋で、マリアは出産することになりました。
 この2000年前の最初のクリスマス、わたしたちが知っているキラキラしていてワクワクするクリスマスとは、全く違います。悲しみ、恐れ、不安。暗闇の中で戸惑いながら、神さまの導きによって訪れた出来事。それがイエス様の誕生です。
 ではわたしたちにとって、クリスマスにはどういう意味があるのでしょうか。神さまはマリアという女性を用いました。彼女がもし、完璧な人間で、何の過ちも犯さず、神さまの前に正しい人であったならば、わたしたちとは遠く離れた出来事だったことでしょう。神さまはそうではなく、神さまの前に弱く、何度も過ちを犯し、自分勝手に生きている人にも、手を伸ばそうとされました。だから、暗闇の中にいる人たちの間に、イエス様を遣わされたのです。
 わたしたちの心の中にも、イエス様をお迎えしましょう。イエス様は、暗く沈んだ心の中にも来てくださいます。明るく整理整頓された心の中にも来てくださいます。ぐちゃぐちゃによどんだ、混沌のような心の中にも来てくださいます。それが神さまのみ心です。どんな人も大切に思ってくださる、それが神さまです。
 この降臨節、イエス様をお迎えするよき準備ができますように。

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