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ショートメッセージ2020年1月

1月26日 顕現後第3主日(マタイ4:12〜23―印刷用PDFはこちら

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二人はすぐに網を捨てて従った。
(マタイによる福音書4章20節)

 イエス様は伝道を開始する際に、ガリラヤのカファルナウムに住まわれました。聖書の文面を読むと、それだけのことです。けれどもこれがどれほどのことか、当時の人たちにとってはどれほどインパクトのある出来事だったのか、そのあたりのことをきちんと押さえていく必要があるように思います。
 当時のユダヤの中心は、宗教的にも、そして経済的にもエルサレムでした。ユダヤの人たちは大きなお祭りのときにはエルサレム神殿に参拝していましたし、権力者や宗教者もエルサレムを中心に集まっていました。逆にガリラヤのカファルナウムは港町でした。重要な貿易ルートなのでお金持ちもいたでしょうが、アッシリアなど諸外国から支配されたこともあり、この当時もローマ兵の拠点となっていたようです。そのためユダヤ人は貧しい生活を強いられていました。
 もしイエス様が手っ取り早く世界を神の国にしたいのであれば、中心地にいきなり行き、活動を開始した方がよかったでしょう。たとえば今から日本を変えたいと思った時に、わたしたちだったらどこに拠点を置くでしょうか。東京でしょうか。それとも地方の片田舎でしょうか。
 しかしイエス様はガリラヤを選ばれました。どうしてガリラヤだったのでしょうか。その理由の一つは、イザヤの書にそう記されていたからです。そこにはこのように書かれています。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ」と。この言葉だけでも、このガリラヤという地が人々から低く見られているような印象、蔑まれているようなイメージを受けます。しかしイザヤ書は続けてこのようにも書いています。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。
 神さまのみ心は、暗闇に住む民に、そして死の陰の地に住む者に、光が与えられるということです。この「暗闇に光」ということを象徴しているのが、ガリラヤのカファルナウムであったということです。
 わたしたちにとって、このことは素晴らしい福音だと思います。神さまが選ばれた地はエルサレムではなくガリラヤでした。そして真っ先に手を差し伸べようとされたのは、光の中で輝いている人ではなく、暗闇の中で救いの手を待ちわびている、そんな人たちでした。
 山でたとえるなら、頂上付近にいる人に向かって「さあ、もうすぐゴールだ!」と言っているのではありません。山のふもとで、登る気力さえ失せ、足元は泥だらけ、道も分からない、そんな状況の中にいる人の元に下りていき、「さあ、一緒に歩こう!」、それがイエス様なのです。

1月19日 顕現後第2主日(ヨハネ1:29〜41―印刷用PDFはこちら

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彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
(ヨハネによる福音書1章41節)

 今日の福音書には、アンデレという人物が出てきます。ヨハネによる福音書の中では、イエス様の最初の弟子として登場します。彼はもともと洗礼者ヨハネの弟子でした。しかしある日、ヨハネがイエス様を見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言っているのを聞いて、イエス様に従います。そしてイエス様のもとに泊まり、彼がメシア、救い主であることを確信します。
 そしてアンデレは、彼の兄弟であるシモンに会い、「わたしたちはメシアに出会った」と報告します。そしてシモンをイエス様の元に連れていき、イエス様に出会わせるのです。
 シモンは別名、ペトロと呼ばれていました。聖書に出てくる弟子たちの中で、一番登場回数が多い人物です。湖の上を歩くエピソードや、「引き下がれ、サタン」とイエス様から怒られた話、鶏が鳴く前に三度イエス様のことを知らないと言ったのもこのペトロでした。
 イエス様もペトロをかわいがっていたようです。山にお祈りに行くときも、十字架の前にゲツセマネで祈ったときも、ヤコブとユダを含めた三人だけを連れていきました。しかしアンデレはというと、これ以降目立った活躍はしていないように思えます。
 しかし今日の福音書が伝えているのは、アンデレがいたからこそ、ペトロはイエス様に出会うことができたのだということです。アンデレがメッセンジャーとしての役割を果たさなかったら、ペトロの様々な物語はなかったのかもしれません。
 本日、桃山基督教会では洗礼堅信式がおこなわれました。心に強く感じたのは、志願された方々は決して自分の力だけではなく、多くの人の導きによって今日の日を迎えられたのだということです。時に迷い、悩み、戸惑った時に、すぐそばで祈ってくれる人がいました。陰で支えてくれる人がいました。一緒に涙を流してくれる人がいました。そして多くの方々の働きにより、志願された方々は神さまの元へと押し出されたのではないでしょうか。
 わたしたち一人一人も、アンデレと同じようにメッセンジャーとして召されています。わたしたちが日常の中で神さまを感じ、イエス様のぬくもりに触れたときに、そのことを周りの人たちに伝えることができれば、素晴らしいことだと思います。
 たとえ聖書に名前が残らなかったとしても、他の人に比べたら小さなことだとしても、それでいいのです。その働きを、神さまは求めておられるのです。
 「わたしは救い主に出会った」、その言葉を待っている人が、あなたのすぐそばにきっとおられます。

1月12日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日(マタイ3:13〜17―印刷用PDFはこちら

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そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
(マタイによる福音書3章13節)

 イエス様はガリラヤから、ヨルダン川にいる洗礼者ヨハネの元に向かいました。ご自分の方から、洗礼を受けるために歩んでいかれたわけです。当時、ヨハネのところには、洗礼を受けるために多くの人たちがきていました。エルサレムとユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方一帯から人々がやってきたと、聖書は報告します。
 イエス様はどういう気持ちで、人々と共に並ばれ、ヨハネの元に向かわれたのでしょう。ヨハネはイエス様がどういうお方か、分かっていたようです。でも周りの人たちにとってイエス様は特別ではなく、自分たちと同じ只の人にしか見えなかったのではないかと思います。だから別に、「イエス様、先に行ってください」とか、「あなたが先に洗礼をお受けください」とかいう会話などなかったはずです。イエス様も広い範囲から集まってきた多くの人たちと一緒に、並ばれました。
 人々はなぜ、ヨハネの元に向かったのか。それは罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けるためでした。神さまが支配される時が、間もなくやってくる。そのときに、正しくない者は裁きを受け、滅ぼされるに違いない。その恐れの中で、人々は悔い改めようとしました。このままではダメだ。その自覚があるからこそ、彼らは悔い改めの洗礼を受けに来ます。彼らの表情はどうだったでしょう。ひどく険しいものではなかったでしょうか。深い悲しみに沈んではいなかったでしょうか。足を引きずっている人はいなかったでしょうか。
 悔い改めよ、その声に反応して、自分の心の中を見つめ直したときに、洗濯しても、洗濯しても、まったくきれいにならない、ボロボロで真っ黒の自分に気づかされるのです。ヨハネの叫びを聞き、首をうなだれながらどうしようもなくただ歩んで行くその人々の間に、そこにイエス様もいたということです。
 長い順番を待っている間、イエス様は人々の様子を見ておられたでしょう。苦しみも理解してくれたに違いありません。そしてようやく順番が来て、ヨハネとのやり取りの後、イエス様は洗礼を受けられ、水からあがられました。
 イエス様が罪深い人々と同じ列に並び、その間を歩き、そして洗礼を受けられた。そのことは、神さまの心に適うことでした。そしてイエス様はその後も、苦しみや悲しみの中にある人々と共に歩まれたのです。
 そしてイエス様は、わたしたち一人一人も招いておられます。わたしたちも神さまの恵みにあずかるようにと、導いてくださいます。わたしたちの痛みを良く知ってくださる方が、共にいてくださるのです。
 そのことに、心から感謝したいと思います。

1月5日 降誕後第2主日(マタイ2:1〜12―印刷用PDFはこちら

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家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
(マタイによる福音書2章11節)

 本日の福音書の箇所ですが、小さいときに聖書のお話を聞いたことがある方、クリスマスの降誕劇などを見たことがある方にとっては、なじみのあるものかもしれません。12月25日に、わたしたちはイエス様のご降誕をお迎えしました。そのあとにお正月もあったので、遠い昔のことのように思う方もおられるかもしれません。しかしクリスマスは、顕現日と呼ばれる1月6日まで続いています。欧米などではこの時期も、まだクリスマスツリーなどのクリスマス飾りはそのままつけられています。それは決して片付け忘れたわけではなく、1月6日までのクリスマス期間はしっかりとお祝いする、そういうことなのです。
 では1月6日の顕現日はどういう日なのでしょうか。それは星に導かれて、占星術の学者がイエス様の元にきて、黄金、乳香、没薬というささげものをした日です。降誕劇では三人の博士として登場することが多く、彼らはまるで王様のような恰好をして、立派な箱に入った贈り物をささげます。この場面を見たときに、遠い世界の出来事だと思ってしまうのは、わたしだけではないと思います。
 というのも、わたしたちはそのような宝物、黄金や乳香や没薬を持っているかというと、そうではないからです。ではわたしたちはイエス様に、何もおささげすることができないのでしょうか。それよりもイエス様は、わたしたちからそのようなものをもらいたいと思っているのでしょうか。
 幼稚園の子どもたちのページェント(降誕劇)の中にも、三人の博士は登場します。一人ひとり、こがね、あぶら、くすりをイエス様にささげます。その後に、全員でこんな歌を歌います。
 「わたしもぼくもイエスさまに おささげします このこころ♪」。
 博士さんたちのように、立派な贈り物がなくても、一人一人の優しい気持ちや感謝の心をイエス様におささげするわけです。
 わたしたちは神さまからたくさんのものをいただいています。命も、愛も、お恵みも、あふれるほどに、もったいないほどに、いただいています。でも何もお返しするものがないと思っていませんか。
 そんなことはありません。わたしたちが周りの人を思いやるとき、隣にいる人を大切に思うときに、その心がイエス様に対する大きな贈り物になるのです。その大切な贈り物を、イエス様は心の底から待っておられるのです。
 わたしたち一人一人がこのような思いで人と接することができたら、世界は変わっていくのではないでしょうか。

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