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ショートメッセージ2020年2月

2月23日 大斎節前主日(マタイ17:1-9―印刷用PDFはこちら

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イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
(マタイによる福音書17章7節)

 ペトロとヨハネとヤコブという三人の弟子を連れて高い山に登られたイエス様。その姿は彼ら弟子たちの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったとあります。そしてモーセとエリヤが現れ、イエス様と語り合っていたそうです。まさに神々しいと表現してよいのかもしれません。そのような姿を見ることができた彼ら三人は、とても喜んだことでしょう。
 そこでペトロは山の上で、イエス様にこう言いました。仮小屋を建てましょうと。仮小屋を三つ立てて、モーセ、エリヤ、そしてイエス様をそのまま山の上にとどめておこうと思ったのでしょうか。そして自分たちも、いつまでもその栄光の中にいたいと思ったのでしょうか。
 実は今日のこの箇所を読むときに、忘れてはいけないことがあります。それは今日読まれた箇所の直前であるマタイ16章の21節以降に、イエス様が死と復活の予告をされたという記述があるということです。イエス様は弟子たちに対して、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると打ち明けます。それを聞いたペトロは、こう言ってイエス様をいさめます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。
 今日の物語はその直後の出来事です。こうしてみると、仮小屋を建てようといったペトロの気持ちが何となくわかるような気もします。ペトロは、イエス様に十字架の道に戻って欲しくなかったのではないでしょうか。イエス様が死に向かうのが、耐えられなかったのでしょう。しかしイエス様は山の上にとどまらずに、山を下りられました。山を下りる、それはこの直前に予告された、十字架への道を歩むということです。神さまのみ心のままに、傷つき、倒れ、苦しむ人々の間を進むということです。
 イエス様は山の下にいる人々に、目を向けられたのです。山のふもとで、自分はダメだ、生きるのもしんどい、もう歩けないとうなだれている一人一人のところに下りていって、一緒に歩んでくださるのです。
 神さまから見たら、本当にどうしようもないわたしたちかもしれない。でも、だからこそ、イエス様は山を下りられ、わたしたちと共にいるという選択をなさったのです。なによりそれが、わたしたちを愛しておられる神さまのみ心なのです。
 なぜイエス様は十字架につけられなければならなかったのか。そしてイエス様が復活なさった意味は何なのだろうか。それがわたしたちにとって、どういうことなのか。今週の水曜から始まる大斎の期間に、思い巡らしていくことができればと思います。

2月16日 顕現後第6主日(マタイ5:21-24,27-30,33-37―印刷用PDFはこちら

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しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
(マタイによる福音書5章22節)

 イエス様は昔の人の言葉として、「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」という命令を取り上げました。「殺すな」という言葉自体は、モーセがシナイ山で受け取った十戒の中に出てきます。その戒めを聞かされたときに、自分はこれを守れているのだろうかと考える。これが普通の反応なのかと思います。当時の人もそうでした。そして自分をいわゆる「正しさ」の中に入れようと、必死になったことでしょう。
 もともと神さまから与えられた戒めは、「殺してはならない」ということだけでした。しかし昔の人は、十戒で与えられた「殺すな」という命令の後に、「人を殺した者は裁きを受ける」という一言を入れます。そのことで、具体的に殺人をすることだけが、神さまから禁じられているものだと限定します。そして自分は大丈夫、正しい者なのだと安心しているのです。
 しかしイエス様は、そのような思いに至る人たちに向かって言われます。
 兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
 腹を立てても、ばかと言っても、愚か者と言っても、裁きを受け、最高法院に引き渡され、火の地獄に投げ込まれる。とても厳しい言葉です。腹を立ててもダメだということは、たとえ言動に移さなかったとしても裁きに値するということです。
 この厳しさを、正面から受け止めるのはとてもしんどいことです。実はこの箇所に、「理由なくして」という一言が付け加えられた写本が複数あります。イエス様の言葉があまりにも厳しいと思ったのでしょうか。「理由なくして兄弟に腹を立てる者はだれでも」とすることによって、自分たちの行動を正当化したのかもしれません。
 わたしたちは、腹を立てることが多くあります。怒りと言いかえてもいいかもしれません。そしてわたしたちは言い訳のようにこう思うのです。そんなこと言っても、「怒る」必要があるときもあるはずだ。この「怒り」は相手のことを思っていることなのだ。社会の正義のために「怒って」いるのだと。
 しかし、これらの「怒り」の根底にあるもの、それは自分こそ正しく、正義なのだという思いです。自分を正しさの中に置き、周りの人を否定し、非難するのです。けれども、そもそも正しさとは何でしょうか。
 あなたたちは「殺すな」という戒めを守っていると思っているかもしれない。しかし自分を正しいものだと思ったときに、人を傷つけ、人を否定し、人を排除しているのではないか。それが「殺す」ことと、何の違いがあるのだろうか。
 それがイエス様の伝えられていることではないでしょうか。

2月9日 顕現後第5主日(マタイ5:13〜20―印刷用PDFはこちら

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あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
(マタイによる福音書5章14節)

 「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」、この言葉を聞かされたときに、わたしたちはどのような思いを持つでしょうか。
 この箇所は、山上の説教の一部分です。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」から始まる8つの幸いに続いて、イエス様はこのように語られました。しかし今日の箇所には、それまでの語り方と大きく違う部分があります。それは「〜な人々は」と三人称で語られていたのが、ここから「あなたがたは」と二人称で語られているということです。
 山上から語られる言葉が、一般的なものではなく自分に対してのものになったのです。そこで「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」とイエス様は言われる。その言葉をわたしたちはどのように受け止めればいいのでしょうか。
 地の塩、世の光。その意味をイメージしようとすればするほど、自分の姿とは程遠いと思うことがあります。塩がこっそり味付けをするように、わたしは周りの人の間で自己を主張することなく神さまを伝えることができているのだろうか。塩が物を清め、腐敗を防ぐように、わたしは人と接することができているのだろうか。
 わたしは世の光として、人々の前で輝いているのだろうか。そもそも立派なおこないなど、できているのだろうか。
 しかしここで、イエス様が語られた言葉をもう一度読んでみたいと思います。イエス様は言われました。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と。そのようになるように努力しなさいということでも、そうなればいいという希望でもありません。あなたがたはすでに、地の塩であり、世の光であると宣言されているのです。
 イエス様の周りで山上の説教に耳を傾けていたのは、宗教指導者やエリート、お金持ちではありませんでした。貧しい人、悲しむ人、病む人、傷む人、虐げられ、蔑まれ、社会の底辺に追いやられた人。神さまにしかすがることができず、必死の思いで暗闇の中を生き続けている人たちでした。その人たちに向かって、イエス様は宣言されます。「あなたがたこそ地の塩であり、世の光なのだ」と。
 あなたがたがいるから、み言葉は人々の間に住み、光は人々を照らしている。イエス様は「あなたがた」のことを、そのように見てくれているのです。
 わたしたちもそうです。わたしたち一人ひとり、イエス様に招かれ、ここに立っているのであれば、すでに地の塩であり、世の光です。わたしたちはイエス様にとって欠かせない存在です。そして暗闇が光に照らされるように、神さまの光に包まれたわたしたちは周りの人たちに光を届かせていきます。
 つまりわたしたちが神さまに生かされることで、隣の人も生かされていくのです。

2月2日 被献日(ルカ2:2〜40―印刷用PDFはこちら

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シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
(ルカによる福音書2章28節)

 本日は2月2日、被献日です。今日の聖書には、「神殿でささげられる」という小見出しが付けられています。イエス様が神殿でささげられたということを覚える日です。
 赤ちゃんが神殿でささげられるという光景は、お宮参りを連想させます。わたしたちの教会の隣の御香宮神社にも、毎年たくさんの赤ちゃん連れの方々が参拝しにいきます。しかし、ささげるといっても、赤ちゃんはお宮さんでそのまま奉公させられるのではなく、ちゃんと無事に家に帰っていきます。イエス様のときもそうでした。ユダヤでは、最初の男の赤ちゃんは神さまのものだとされていました。そしてお母さんの清めの期間が過ぎたら、神殿にささげにいく決まりになっていました。だからといってその赤ちゃんがそのまま神殿に居続けたかというと、そうではありません。律法で決められたささげ物、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をささげることによって、その義務を果たしたことになったのです。
 この「神さまにささげる」ということについて、少し考えてみたいと思います。礼拝(聖餐式)の中に、「奉献」というところがあります。平和のあいさつが終わり、聖歌を歌いながら献金を集める。わたしたちの中ではそのイメージが強いかもしれませんが、そこにはもっと大きな意味があります。まずパンとぶどう酒が、会衆席の後ろから運ばれてきます。そして聖卓の上に運ばれ、集められた信施とともに神さまのために用いられていく。しかし用いられるのはそれだけではありません。
 続く感謝聖別の中で、わたしたち自身をもささげられ、神さまどうぞ用いてくださいと祈るのです。わたしたちは聖餐式の中で、イエス様の十字架の犠牲を記念します。そしてその犠牲に連ねられて自らをささげ、その犠牲の実にあずかる。そのことをわたしたちは毎週の礼拝の中でおこなっているのです。
 そう思った時に、わたしたちは本当に、神さまのためにこの身をおささげしているのだろうかと思うことがあります。自分の思いや私利私欲、神さまのことではなく人間のことを優先させて過ごしてはいないのだろうかと思います。
 イエス様が神さまのみ心のままに十字架に向かわれ、わたしたちのために犠牲のささげ物としてささげられたように、わたしたち一人一人もまた、自分自身を神さまの前に差し出すことができるのだろうか、考えていきたいと思います。
 幼子イエス様が神さまにささげられたこと、当時は単にユダヤ教の儀式としておこなわれたことかもしれません。しかしイエス様が十字架によって自らをささげられたことは、神さまの大いなるご計画の中でなされたことです。
 わたしたちもまた、神さまに用いてもらえるように祈りましょう。

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