本文へスキップ

TEL. 075-611-2790

〒612-8039 京都市伏見区御香宮門前町184



ショートメッセージ2020年3月

3月22日 大斎節第4主日(ヨハネ9:1-13、28-38―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
(ヨハネによる福音書9章2節)

 今日の福音書には、まず生まれつき目の見えない人が登場します。事故や病気で目が見えなくなったのではなく、生まれてからずっと見えたことがない人。その人のことを、世間はどのように見ていたのでしょうか。
 弟子たちはイエス様に尋ねます。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と。さらに最後の方には、ファリサイ派の人たちのこんな言葉が書かれています。「お前は全く罪の中に生まれたのに」。
 生まれつき目が見えないことと罪とが、結ばれている。それがこの時代のいわば常識でした。そこには何の疑いもありませんでした。だから弟子たちは、罪を犯したからこうなったという前提で、「だれが?」と問いかけるのです。これらの言葉の裏には、「自分は違う」、「わたしは罪人ではない」という思いが見え隠れしています。
 そもそも「罪」とは何なのでしょうか。「罪」とは「的外れ」ということを意味します。自分では神さまの方を向いているようでも、きちんと向けていない、そういうことです。実は的外れなのは、生まれつき目が見えない人ではなく、弟子たちやファリサイ派なのではないでしょうか。
 わたしたちは、暗闇の中にいると感じることもあると思います。罪とは的外れということです。しかし暗闇の中にいるときには、的外れかどうかというレベルではありません。とにかく前が見えない。周りが見えない。いったいどこに歩んで行ったらいいのか、まるでわからないという状態です。
 そこに光が差し込んできました。神さまが救いのみ手を差し出して来られたのです。生まれつき目の見えない人の目が開かれたように、わたしたちは主に結ばれて光を感じます。これは2000年前に一人の人にだけ起こった出来事ではありません。
 神さまはわたしたち一人一人の姿をご覧になり、目を開かせるためにどうするべきか、考えられました。そして出した結論が、イエス様の十字架と復活なのではないでしょうか。神さまの愛に包まれ、光の子として歩んで行く。それがわたしたちに求められている姿なのかもしれません。
 わたしたちはなぜ教会に集い、ともに礼拝をささげているのでしょうか。それはわたしたち一人一人が神さまに結ばれているということを確信するため。そしてその喜びを、一人でも多くの人と分かち合うために、外に遣わされるのです。

3月15日 大斎節第3主日(ヨハネ4:5-26、39-42―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
(ヨハネによる福音書4章42節)

 今日読まれたのは、イエス様とサマリアの女性の大変長い対話です。今日はその中でも、「渇き」という言葉に焦点を当ててみたいと思います。
 まず物語の中で、最初に「渇き」を表明したのはイエス様でした。時は正午ごろです。場所はサマリア。そこには井戸がありましたが、イエス様には水を飲むすべがありません。そこにやってきたのは、サマリアの女性でした。「水を飲ませてください」、そのようにイエス様は、水をくみに来たサマリアの女性に言葉を掛けます。イエス様は肉体的な渇きをいやすために、サマリアの女性に「水を飲ませてください」と声を掛けられたようです。しかしこの時代、違う民族の人に、そして知らない異性に話しかけるということは考えられないことでした。
 イエス様は、民族と性別という二つの壁を乗り越えられて水を求められた。それだけでもすごいことだと思います。しかしこのイエス様の行動には、もっと大きなものがあると思います。
 わたしたちはこうして礼拝を守っております。そこにはわたしたちのどのような思いがあるのでしょう。その一つは、「渇き」ではないかと思います。日々の「渇き」をいやしたい。日常の様々なことの中に生じる「渇き」を何とかしてほしい。わたしも毎週、様々な思いにさいなまれます。喜びもあれば悲しみもある。痛みを背負うことも、苦しくてたまらないときも、でもそんな思いの中で、聖書のみ言葉を聞き、共に賛美することでまた、明日からの一週間に向けて歩き出す。その繰り返しです。
 イエス様はサマリアの女性に「水を飲ませてください」と願いました。この言葉だけを見ると、渇いているのはイエス様であり、渇きをいやすのは女性のように思います。ところが物語が進んでいくにつれ、その立場は逆転していきます。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。この女性の言葉を聞く限り、本当に渇いているのは女性であり、渇きをいやすのはイエス様だということになります。
 イエス様はこの彼女の心を見抜いていたのではないでしょうか。今、目の前に、渇いている女性がいる。二人の間には、本当は壁があったはずです。しかしイエス様の目には、そんな壁なんてないに等しいのです。
 そのイエス様が、わたしたちの元にも来て下さっているのです。渇き、嘆き、痛み、恐れているわたしたちの元に来て、声を掛けてくださいます。
 「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。それがわたしたちに対する約束です。

3月8日 大斎節第2主日(ヨハネ3:1-17―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
(ヨハネによる福音書3章3節)

 今日の福音書に登場するのは、ニコデモというファリサイ派の議員です。彼はユダヤ人たちの指導的立場にあった人でした。ある夜、彼はイエス様の元を訪ねます。
 ファリサイ派は聖書にたびたび出てきます。その意味は、「他と区別する者」、自分は神さまに選ばれた者として正しい生活をするという強い思いの中で生きていました。そして正しくない者、罪人などとは一線を画す、そういう人たちでした。
 ニコデモは夜にイエス様に会いに行きます。なぜ夜だったのでしょう。もしみなさんがニコデモだったとしたら、いつイエス様に会いに行くでしょうか。わたしがもしニコデモだったとしたら、夜に会いに行ったと思います。昼間だったら、仲間たちの目があるかもしれないからです。「自分は正しい」という気持ちが強ければ強いほど、そのように思ってしまうのかもしれません。また夜だから時間を気にせずに語り合えるという理由もあるかもしれません。ただニコデモは、イエス様のことを、「神が共におられる」方だとして認識していたようです。
 イエス様はそんなニコデモに、三度同じ言葉を繰り返します。「はっきり言っておく」。この言葉はこう訳してしまうと、イエス様の気持ちがきちんと伝わらないように思います。原語どおりに訳すとこのようになります。「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う」。ここには「しっかり聞いておけ、今から大事なこと言うぞ」というイエス様の思いが感じられるようです。ではイエス様はニコデモに、何を伝えようとされたのでしょうか。それは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」ということです。
 「新たに生まれる」。そう聞いて、ニコデモはもう一度赤ちゃんとして生まれることを想像しました。確かにそれは間違っていません。でもそれで十分ではありません。というのも、この言葉には、二つの意味があるからです。その一つは「再び」。これはニコデモのイメージと通じるものがあると思います。そしてもう一つは、「上から」というものです。つまり「人は新たに生まれなければ」という言葉は、「人は上からの力で生まれ直されなければ」と読むことができます。上からの力です。自分の力ではなく、神さまからの力によって、生まれ変わるのです。
 今自分がもっている全てを捨て、手放し、そして神さまにすべてを委ねる。そのときに神さまは、わたしたちを新しくして下さる。それがイエス様の伝えたかったことではないでしょうか。
 そしてその独り子をお与えになったほどに世を愛された神さまは、わたしたちすべての人が、一人も滅びないことを望まれています。その思いによって、わたしたちは生かされているのです。

3月1日 大斎節第1主日(マタイ4:1-11―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
(マタイによる福音書4章3節)

 イエス様は荒れ野で40日間、昼も夜も断食しました。そしてその後、イエス様は悪魔の誘惑を三回も退けられます。一度目はお腹が空いたイエス様に対し、地面に落ちている石ころをパンに変えるように命じてみたらどうかという誘惑です。二つ目はイエス様を神殿の屋根の端に立たせ、飛び降りてみたらどうだ、あなたが神の子なら天使が支えるはずだという誘惑。そして最後のものは、わたしを拝みなさい、そうすればすべてのものを与えようという誘惑でした。
 イエス様はそのそれぞれの誘惑に対して、聖書の言葉を用いて答えます。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」、「あなたの神である主を試してはならない」、そして「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と。
 わたしたちはこのような誘惑に打ち勝っているでしょうか。神さまの言葉に生かされ、神さまを試すこともなく、ただただ神さまに仕えていく。言葉だけでは簡単そうに見えることですが、実際には全然できていない自分に気づくことがしょっちゅうです。自分に頼ってしまうし、神さまどうしてですかと何度も問いかけるし、神さまの存在を忘れてしまうこともしばしば。そしてこう思うのです。こんなにできていない自分はダメだと。
 今日の福音書はわたしたちに何を伝えようとしているのでしょうか。登るのが無理な山でも、何とかして登りなさいということなのでしょうか。そうではないと思います。
 神さまはイエス様をわたしたちの間に遣わされました。それはわたしたちが弱い人間だからです。神さまに何度も背き、正しく歩めない。そんな一人一人だからです。もしわたしたちが自分の力で立てるならば、イエス様が地上に遣わされ、十字架の道を歩んで行くことなどなかったはずです。
 神さまは罪に苦しみ、右往左往しているわたしたちの姿をご覧になり、何とかしなければと考えられました。わたしたちがどうでもいい存在だったら、そんなこと考えなかったでしょう。しかし神さまはわたしたちを愛し、大切に思っておられるから、何とかして救いたいと考えられました。
 わたしたちはイエス様が誘惑に打ち勝たれたように、強くありません。今日の荒れ野の誘惑の物語は、そのことをいつもわたしたちに伝えてくれます。どんなに弱く、汚れていたとしても、いや、だからこそ、イエス様はわたしたちの代わりに十字架につけられ、わたしたちを支えてくださるのです。
 イエス様はわたしたちと共に歩んでくださいます。

バナースペース

日本聖公会 桃山基督教会

〒612-8039
京都市伏見区御香宮門前町184

TEL 075-611-2790
FAX 075-611-2790